アンダーコントロール
先日、電車に乗っていた時の話。
その車両には二人掛けの席が向かい合わせになるボックスタイプの席があって、そのボックスタイプの背もたれの裏には進行方向に対して垂直の二人掛けの席がある。そしてその席がドアに隣接している。電車は都内から離れ、大きい駅も過ぎ車内の人はまばらになってきていた。
そこで、僕の見ている前である女性がちょっと衝撃のことをした。
ドアに隣接している二人掛けの席が空いた瞬間。
待ってましたというように靴を脱いで座席に乗り座った。
進行方向と平行に、ぺたんと女の子座りで。
めっちゃくつろいでいる感じで。
僕は少々驚いた。
だって電車って限りなくパブリックなスペースじゃん。
そこでそんなプライベートモードを披露するとは。
ためらいとかないのだろうか。
いくら本人がプライベートみたいにくつろいでいても、人に見られているわけだし。
あんまり良くないよ。
でもそういうことって、少しだけ自分もやってみたいというような気持ちがあるよね。
なんなんだろう、この抑圧された衝動めいたものって。
だからといって今後彼女と同じことをするかというと、それはないのだが。
きっとその女性は、その衝動めいたものが抑えきれなくなった結果あんなことをしたんだろう。
きっと僕が今日、夕食をあれだけ食べたのに寝る前にゼリーを食べたのもその作用だろう。
いやそれは単に意思が弱いだけか。ゼリーみたいにぷるんぷるんだっただけか。
衝動は正しく使いましょう。
靴底が世界を踏むならば
歩いていたら、いつの間にか靴底にピンバッチが刺さっていた。
カシャカシャいうので、靴底を見てみたらそこに鷹がいた。
可愛くデフォルメされた鷹のピンバッチ。それは何か、僕と世界の間に滑り込んできた使者のように見えた。僕はそれを手に取ろうとして、しかし躊躇った。彼が居なくなれば僕はまた世界に吸収されてしまうだろう。何事もなかったように。
それでいいのか?
答えは否だ。
日常に舞い込んだ一羽の鷹。
その爪で日常と非日常を隔てる膜を切り裂いてくれ。
その翼で見たことのない景色の向こう側まで連れて行ってくれ。
その眼で本当に倒すべき敵が自分の中にいることを確信させてくれ。
その嘴で届かない言葉の行き先を指し示してくれ。
ああ、混雑する駅のホームで、何者でもない者たちのなかで、僕は何者になれるのか。
鷹よ。教えてくれ。
僕の靴底で羽根を休めたのは、偶然じゃないのだろう?
猛禽になれなかった僕は、何処でならそうなれるんだい?
その時だった。
鷹のピンバッチから、湧き出すように光がーーーー
ドンッ
「あっすみません」
チッ
「……」
ハッ!
なに偶然踏んだ鷹のピンバッチから物語始めようとしてんねん!
怖っ!
でも結構やっちゃうんですよね僕。
すばらしき映画音楽たち ‐ 本当にやりたいこと
前回の記事からだいぶ間があいてしまったが、死んだわけではない。
むしろ生きる方法、いや生かす方法について考えたりした。
生かす、というのは自分をどう生かすかということである。
自分のやりたいことは何なのか。本当は何がやりたいのか。
というのも、友人と「すばらしき映画音楽たち」という映画を観たからだ。
内容はドキュメンタリーみたいで、ハリウッド映画を彩った音楽家たちやそれを取り巻く人たちが、映画に音楽がどれほど密接に関わっていて、作品に一翼を担っているかを語る一方で、ああこの人たち本当にこの仕事が好きでやりたくてたまらないんだな、というのを感じさせる素晴らしい作品だった。
だから考えてしまった。今までも何となく考えることもありはしたけど。
本当は自分は、何がやりたいんだろう。
今日、いつも家で使っている椅子のネジが緩んでいるのを直した。
家にいるときだいたい座っている椅子だ。
そのときふと思った。
人間も、生活を繰り返しているうちに、「自分の譲れない本当の部分」みたいなもののネジが知らず知らず緩んでいるのではないかと。そして強固に保ってあった「自分」が漏れ出して、それを囲む日々の生活や他人の価値観に溶け出して混ざり形を少しずつ失くしていくのではないかと。
それはきっと「丸くなった」とか表現されるものだと思う。
だからきっと悪いことじゃない。
でもそれでいいのだろうか、と思うところもある。
学生が終われば就職して、なんとか生活できる給料もらって、いい年になったら結婚して家庭をもって、子どもの成長のため身を粉にして、子どもが独り立ちしたらあとは余生を過ごす。
素敵なことだ。誰もが目指すところだ。
でもそれって「やりたいこと」なのか?
違くね?
どっちかっていうと「やるべきこと」寄りじゃない?
社会が示している漠然とした正解ルートのように感じてしまうんだよな。
個人としてやりたいことって何なのか。
これを考えながら生活すると、今まで見逃してきた日常に潜むオリジナルライフへの入口の鍵を見つけるチャンスが増えそうな気がしている今日この頃です。
三度目の殺人 − 弁護士vsサイコパス
絶賛上映中の「三度目の殺人」を観てきました。
ネタバレ含むと思われますのでご注意ください。
これ、わかりにくかったと思うんですが、というか僕も終わるまで確信は持てなかったんですが、最後まで観て完全に確信しました。
これ、サイコパス映画です。
法廷サスペンスとしても完成度が高いと思いますが、それよりも、犯人のサイコパス性、サイコパスと呼ばれる人間がどういうものか知ってないと理解しづらいように思いました。なんかよくわからないけど狂気は感じる、くらいで終わってしまうかも。
サイコパスとは、日本語では反社会性パーソナリティ障害と呼ばれています。
簡単に言えば究極の自己中。他人の気持ちがまったくわからない、わかろうとしない、どこまでも被害者思想。その行動には理由がなく衝動的、やりたいからやる。そして口が上手い。しかし基本的にその場しのぎで自分に非がないように話すので矛盾が生じる。そんな人種ですね。
でも病気とはされないそうなんですよ。一応社会の中でルールに則って暮らせるので。サイコパスは凶悪犯罪を犯して注目されることが多いですが、圧倒的大多数が普通に社会生活を営んでいます。
三度目の殺人。この映画で起こった殺人事件。
その犯人として扱われる役所広司さん演じる人物「三隅」がほぼ確実にサイコパスなんですよ。
でもって、その事件担当で彼とやりとりを重ね、振り回される弁護士「重盛」役が福山雅治さん。
ざっくりあらすじをいうと、重盛は勝ちにこだわる弁護士で、勤め先の工場の社長を殺して火をつけた疑いで逮捕された三隅の弁護を担当することになります。三隅は殺人事件の前科持ちで今回で殺した人数は三人目、犯行も自供しているためほぼ死刑確定状態。しかし重盛は無期懲役に持ち込みたいため調査を始めるわけです。そして調査を進めるほど、三隅はコロコロ言うことを変えるし、被害者の娘とも意外な接点が見えてくるし、一体どうなっているんだ…とぴったりの目が出ないせいでいつまでもあがれないすごろく状態になっていくわけですね。
あと大事なのが、広瀬すずさん演じる被害者の娘が何気なく、だけど誰も口にしなかった法廷に対する疑問。でもそれは誰かが語ってると思うのでここでは割愛しちゃいますけども。
本来、人は行動する時には理由が伴うわけです。そしてそれは歳を重ねて大人になっていき、社会に組み込まれていくうちに制限されていき、無意識にその中でやりくりしていくようになる。守るものができれば、それが行動の理由になる。
しかし、三隅にはそれが一切感じられない。後悔しているのか、とか聞いても「はい」と返事はしますが全然そう思ってるように感じないんですよ。なんで後悔するの?ってトーンなんですよ。それを出せる役所広司さんの演技は素晴らしいんですけどもね。
急に人が変わったように怒っていることもあれば、突然主張を変えたりしてそれを信じろと言う。そしてそれがいずれも冗談と思えない態度。最初は冷静に対処していた重盛も徐々にペースを乱され、その行動、言動にひとつひとつに理由があるのではと奔走するけども、それはいつの間にか三隅に翻弄されている結果であり、観てる側もそうなっていきます。
事件は様々な人が絡んで二転三転しますが、要は善良な人たちがサイコパスに振り回されるのを観る映画だったんだな、と僕は思いました。
その決め手となったのが、最後に重盛があなたがあの時こう言ったのはこういうことか?と問うシーンで、ここで三隅は「それ、良い話ですね」と答えるんですよ。これでした。彼の今までの行動に意味なんてなかった。それが浮き彫りになった台詞であり、種明かしになっている台詞だなと感じました。
フレンチ・ラン − えっ嘘あれ爆弾だったの?
やっと映画の感想書きます。
映画のレビューは慣れてないのであんまりうまくない思うけど、取り敢えずやってみますー。
フレンチ・ラン。
TSUTAYAで借りて家で鑑賞。結構ずっと気になってました。
CIA捜査官×スリ!?映画『フレンチ・ラン』予告編 - YouTube
原題はBastille Dayで、革命記念日という意味だそう。個人的にこっちのほうがカッコいい気がするけども。実際の物語は、この革命記念日前夜にパリ市街で起こった爆弾テロから始まる。
このテロの容疑者とされたスリの天才の若もんのマイケル(リチャード・マッデン)。
この事件の捜査を担当することになったCIAのアウトロー捜査官ブライアー(イドリス・エルバ)。
この二人が大活躍なバディ・ムービー、というのがこの映画。
ネタバレは極力控えてざっくり流れをいうと。
一発目の爆弾テロが起こり、犯行声明が出される。制限時間は36時間。
テロの容疑者とされたスリのマイケルをいち早くブライアーが手荒に捕まえて、
「オラァお前やったんかコラ」と問い詰めると、
「いや俺じゃないこれマジだから俺ただのスリの達人やから」とかマイケルが言って、
「ホンマっぽいなじゃあ真犯人探しに協力せーやコラ」ってブライアーが強引に協力させて、
「わかったから終わったら解放してくれや頼むでホンマ」とマイケルが堪忍して捜査開始!
ブライアーが強引に特攻、スリのテク駆使してマイケルがサポート!
どうやら警察が臭いぞ、と捜査が進むにつれてわかってくるけど、例によって、あ、これ国家を揺るがす系の巨大な陰謀が見えてきたでやばいわ止めな…って感じ。
ちなみになんでマイケルが疑われたかというと、スッたはいいもののただのぬいぐるみじゃんいらねって捨てたものが爆弾だったというね。ギャグか、というね。
ストーリーはわりと王道というか、意外性はそんなにないんだけど、その分安心して観れるといった感じ。時間も90分短めで飽きることなく一気に駆け抜けて爽快な余韻に浸れました。
CIAのアウトロー捜査官はイドリス・エルバという、「プロメテウス」や「パシフィック・リム」にも出演しているなかなか有名なイギリスの俳優さんが演じているのですが、いやーやっぱり黒人主人公は最高にカッコいいですわ…渋い!腕っぷし強い黒人痺れる!
あと相棒がスリの天才ってのがいいんですよね。マイケル役のリチャード・マッデンは、僕は恐らく初めてお目にかかったのですが、ふとした時の表情とか演技良かったー。スリの手際も鮮やかにこなしていて、果てはピタゴラスイッチみたいなこともやってて楽しかった!
あ、あとオープニングで、女が全裸で公共の場を歩くシーンがあるんですよいきなり。
マイケルがスリする時に通行人の目を引くために雇った女なんですけどね。
うん、この映画、おっぱいで始まる映画なんです。
別れの伏線
数ヶ月前、初めてできた彼女と別れた。
別れる前、彼女が最近若い女についてよく考えると言っていた。
「あの時ああ言ったじゃない」「ずっと一緒だって言ったじゃん」とか彼女らは言うが、時とともに変わるものだからそういうことを持ち出されても困るよね、とかそんな内容だった気がする。
この頃は彼女の気持ちが僕から離れていっているように感じている時期だった。
今思うと、この発言は伏線だったのかもしれない。
ひとつは、彼女の中には僕に対する気持ちが薄れてきていて、別れを持ち出しても上記のようなことを言うなよという予防線。
ひとつは、私もそういう類のことは言ったけど今はもうそう思っていない、ということを暗に示していた可能性。
まぁ実際別れ話になった時、前者のようなことを僕は言わなかったと思うし、後者のような意味に取れることは言っていたように記憶している。たぶん。だから結果から思い至った伏線なのだが。
こんなこと考えても仕方ないし、事実はわからない。大方僕の勝手なこじつけだろう。
唯一はっきりしたのは、関係が終わったこと。
結末がわかれば、どれも伏線に見える。
だから、あまり伏線だったかどうかは考える意味はないのだろう。
それに、彼女は恐らく、どんな形であれ僕が納得を得られるように最後まで話し合ってくれた。
そのほうがずっと重要なことだ。
恋愛が終わりを迎える時、どちらかが100%悪いということはないとは思うとけど、比率はあって、たぶん僕が八割がた悪かっただろうに。
「別れはプラスにしかならない」
これも彼女がかつて言っていたことである。
彼女の言葉は僕の人生にはないものばかりだった。
僕も感謝の気持ちとともに、この言葉を信じることにした。
終わりのあと
僕は「何かが終わったあと」の雰囲気が好きである。
しかしそれを職場に人に話したら共感されなかった。
うーん、好きなんだけどなぁ。
何かの最盛期が過ぎたあとみたいな時間や世界ね。
季節で言えば夏の終わりから秋まで。
祭が終わったあとの雰囲気とか。
自然に飲み込まれる廃墟とか。
ポストアポカリプスを描いた作品とか好きでたまらない。
あの独特の物悲しさの漂う時間、空間、世界。なぜあんなに心魅かれるのか。
そこで、それらに何が共通してるのか考えてみた。
ふむ、「寂しさ」かなー、とわかりやすいものが一番に浮かんだ。
かつてはここにたくさんの人がいたけど今はいないという類の寂しさ。
そこに確かにあった喜怒哀楽。 それらには縁のないような顔をした寂しさ。
しかし、思うに「寂しさ」って喜怒哀楽すべての感情に繋がるのではないか。
寂しいから、それを払拭するために人に会うし、楽しいことしようとする。それがわかちあえれば喜びを感じる。
寂しいから、それが哀しくなるし、人に構ってもらおうと何かを起こす。それで振り向いてもらえなければ理不尽に怒ったりする。
寂しいから、そこから抜け出す行動を何かしら起こそうとするわけだ。
行動の原動力であり理由になる。
寂しさも共感できれば、それは寂しくなくなる。
寂しさってお一人様用の感情なのかね。
なぜ生きるかと聞かれたら、死ぬのは寂しいから、と答えたらなんかそれっぽい。
なんかポエムみたいだなこの記事。
日曜の夜はセンチメンタルになってやだねぇ。
まぁ、「何かが終わったあと」の雰囲気が「寂しさ」からくるものだったとすると、それを好きと感じる人がいるのも、嫌いと感じる人がいるのも頷ける。
寂しさに共感するか、寂しさを忌避するか、人によって違うといったところかな。
いやもちろん、終わりのまえの楽しい時間が嫌いと言っているわけではないけどね。